'66 FORD GT40 Mk.II ♯2

MAKER:ixo MODELS
MODEL No.:LM1966
SIRIAL No.:
DRIVER:B. McLaren、C. Amon

 まだフォード・モーター・カンパニーが創設される以前、ヘンリー・フォードは、自身の作った車の性能をアピールする場としてレースを選択し、自らステアリングを握っていました。フォードとモータースポーツの関係は、非常に深いのです。'57年、AMA(Automobile Manufacturers' Association)において「自動車メーカーはモータースポーツに関与しない」という協定が結ばれた為、フォードはこれを遵守することになりますが、'62年になるとフォードは正式にモータースポーツに復帰する事を選びます。当初その舞台として選ばれたのが、ストックカーレースとドラッグレース。やがてこれにインディ500が加わり、その目は国内から海外へと向けられて行きます。そこでターゲットとされたのが、ル・マン24時間レースでした。
 しかし、スポーツカーレースのマシン開発や実戦でのチーム運営に対するノウハウに欠けたフォードは、手っ取り早く既存のスポーツカーメーカーを買収する事を検討。そこで白羽の矢が立ったのが、イタリアの名門として当時レースを席巻していたフェラーリでした。実は当時経営が不安定だったフェラーリ側からもオファーがあったという話もありますが、結局両社間による交渉は決裂し、それを受けてフォードは1週間後には自らが開発したマシンでスポーツカーレースに臨む事を決定します。
 Special Vehicles Activity(SVA)というプロジェクト名で開発されたマシンは、当時のカテゴリー区分において、「GTプロトタイプ」に属する事から、「フォードGT」という名称があたえられ、マシンの基本的なレイアウトやスタイリングについてはロイ・ランが率いるアメリカのチームで、そして細部の設計や制作については、イギリスに新たに設けられたFord Advanced Vehicles(FAV)で行われました。FAVには、ローラGT Mk.6の設計者であるエリック・ブロードレイが迎え入れられ、当時アストン・マーチンのワークスチームのマネージャーとして知られていたジョン・ワイヤーの指揮の元、レーシングスポーツカーとして初めてツインチューブのモノコックフレーム(スペースフレーム)を採用してその実力を認められていたローラGT Mk.6をベースとして開発が進められました。
 全高わずか40インチ(約102cm)であることから「GT40」と呼ばれるようになるマシンには、'63年のインディ500でロータスに搭載されたエンジンをデチューンした、4,195ccのOHV90度V8エンジンが搭載されました。また、モノコックはアルミ合金シートを用いず、全て鋼板が使われ、量産車の技術がフィードバックされました。もっとも、その分重量は嵩み、また軽量化を推していたエリック・ブロードレイと意見の食い違いが生じ、結果、彼はプロジェクトを離れる事になってしまいます。
 完成したGT40は、当初の計画通り'64年のル・マンに参戦したものの、熟成不足が原因で出場した全3台がリタイアとなりますが、これを機にフォードは体制の強化を図ります。新たに開発されたGT40には、NASCARのストックカーレースで使用されていた6,997ccのエンジン(427)が搭載され、それに伴う各部の補強がなされ、Mk.IIの名を冠します。'65年のル・マンで高いポテンシャルを発揮するものの、再びフェラーリに破れたフォードは、'66年のル・マンに向けてマシンを熟成させて行きます。前年使用したロングノーズは短縮された新たな形状となり、サイドウィンドウ後端のリアカウルには、エンジンの吸気とブレーキ冷却用のエアインテークが設けられ、リアカウル中央にも排気管とギアボックスを冷却する為のインテークが追加されました。また、ブレーキも4輪ベンチレーテッドディスクとなり、ディスクを短時間で交換できるように工夫が成されていました。
 そして遂に'66年のル・マン。フォードは、シェルビー・アメリカン、ホルマン-ムーディ、アラン・マンの3チームから8台のMk.IIをエントリー。さらにバックアップとして5台のGT40を投入し、合計13台という大艦隊による物量作戦でサルテ・サーキットに乗り込みます。
 レースが半分を過ぎた頃にはトップ6を全てフォードが独占し安泰かと思われますが、その後トラブル等により、バックアップのハズのGT40は全滅。結局Mk.IIの1号車、2号車(同一ラップ)、5号車(9周遅れ)の3台が生き残ります。無事に1号車が優勝すると誰もが思ったフィニッシュ間近、フォードの首脳陣は、この勝利をより劇的なものにしようと、3台のMk.IIで編隊を組んでゴールする事を命令します。リードしていた1号車がペースを落とし、2号車、5号車とのランデブー走行が始まりました。そして24時間が経った時、1号車は減速し過ぎてしまい、2号車がこれをパス。それまで長時間に渡り1位を走っていた1号車より先にチェッカーを受けてしまったのです。仮に2号車が1号車を抜かなかったとしても、レギュレーションには、「同一ラップのマシンが並んでゴールした際には、スターティンググリッドが後方のマシンを優勝とする」という記載があります。ACOは、このレギュレーションを盾に2号車の優勝とし、フォード側の「両マシン優勝」の要請を却下。長らくフォードが待ち望んでいたル・マンでの優勝は、後に禍根を残す結果となってしまったのでした。
 左のモデルは'66年に優勝した2号車で、ixo製。長い間待ち望んでいたMk.IIがようやく発売です。これまで発売されていたMk.IIは、お世辞にも良いデザインとは言えませんでしたからねぇ・・・。このモデルは、全体のデザインは良く纏まっていると思います。ただ、凄く残念なのは、Mk.IIの特徴であるサイドウィンドウ後端のエアインテークが塞がれちゃってる事。コレ、塞いじゃダメでしょう!ディアゴスティーニのレーシングカー・コレクションでも塞がれてたから、イヤな予感はしてたんですがね。それだけがとっても残念です。

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