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'95 Castrol Tom's Supra #36

MAKER:EBBRO
MODEL No.:976
SIRIAL No.:
DRIVER:M. SEKIYA、M. KRUMM

 '93年、僅か3戦、参加台数2台から始まった全日本GT選手権、いわゆる「JGTC」。グループA車輛によるレースが終了した後、使い道の無くなったこれらのマシンを再利用し、低コストで参加できるレースとして開催されたこのレースは、GT-Aの設立により再構築され、ウェイトハンデ制の導入、GT1、GT2というクラス分け等、現在まで続く骨子が纏められ、'94年になると本格的に始動し始めました。
 もともとJGTCの立ち上げには、グループAで最も成功し(カテゴリ−崩壊後に大量に余ってしまっ)たGT-Rを持つ日産が深く関わっていたとされていますが、これに対し、トヨタ車としてはBLITTZと、シフトポイント+MYGの2チームが、前年までN1耐久レース(現在のスーパー耐久)に出ていたJZA80スープラをベースとして、タイヤの大径化とブレーキの強化を施して投入していました。が、周囲のマシンはグループAの流れを汲むマシン達。N1マシンに毛が生えたようなマシンでは敵う筈もありません。この事態を打開する為に、トヨタとTRDのジョイントで開発されたのが、GT仕様のスープラでした。直6の2JZ-Gエンジンは、グループC用をベースにTRD-USAが開発したIMSA仕様の2.1リッター、直列4気筒3S-GTEエンジンへと換装。ミッションはXトラック製の6速シーケンシャルが採用され、足廻りはアップライトやショックアブソーバー等の多くのパーツがTS010から流用されました。
 こうして完成したGT仕様のスープラは、'94年8月の富士スピードウェイでのシェイクダウンを経て、スポーツランド菅生で開かれた第4戦、ワークス格のサードからのエントリーでデビュー。予選で2位を獲得するも、決勝ではオイル漏れでリタイア。また最終戦ではBLITTZからエントリーのマシンもGT仕様になり、サードの39号車がポールポジションを獲得しますが、結局決勝では2台共リタイアしてしまいます。剛性の不足しているボディに、ドッカンターボという組み合わせで、けしてドライバビリティに優れるとは言い難く、またIMSAスプリント仕様のエンジンは燃費が悪く、レース戦略を組み立てる上でも苦労したようです。
 翌'95年、トヨタは参戦チームを拡大。ワークス格のサードを筆頭に、トムス、セルモ、パワークラフト(FET)の4台がシリーズにエントリーします。マシンはエンジンの搭載位置をより低く、後方にして重量バランスが改善され、リアのサスペンションも変更が加えられました。また、グループC用に開発されてデッドストックになっていたパワステも装備され、ドライバビリティも向上しました。そして仙台ハイランドで開催された第3戦、関谷 正徳とミハエル・クルムのドライブによりカストロール トムス スープラが遂に念願の初優勝を達成するのですが、結局この年優勝したのはこの1勝のみ。TRDは翌年、排気量毎に決められる最低重量を考慮して、エンジンをWRCのセリカ(ST205)に搭載されていた2リッター仕様の3S-GTEへと換装、同時に'95年後半に試されていたフレッシュエア・システム(ミスファイアリング・システム)も正式導入され、開発は進められるのですが、そんなトヨタの前に立ちはだかるのが、マクラーレンF1 GTRという名の「黒船」だったのです。
 左のモデルは'95年に、スープラとしてシリーズ始まって以来初めて優勝したカストロール トムス スープラの36号車でエブロ製。ワークス扱いのサード(39号車)をスルーしてカストロールを選択したのは、「初優勝のマシン」だからではなく、「トヨタ=カストロール」の印象が強いから。でも、トヨタの競技車輛がカストロールカラー纏ったのは、WRCを含めてもそれほど長い期間ではないんですよね。やっぱり「印象」ってのは、「時間」ではなく、「インパクト(鮮烈さ)」に支配されるファクターなんでしょう。
 先に発売されたGT-Rもそうですが、エブロがこうしたJGTC黎明期のマシンをモデル化してくれるようになったのは、評価すべき点だと思います。モデルのデキも良いですね。最近の行き過ぎたデザインのマシンばかり見ていると、如何にも「GT」といった感じの、良い意味で「チューニングカーに毛が生えた程度」のマシンは、逆に新鮮です。フェンダーの拡幅もブリスター化じゃなくてオーバーフェンダーだし、全体的に市販車の面影を強く残しています。やっぱりこの頃の方が良かったなぁ・・・。

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