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'99 AUDI R8R #7

MAKER:MINICHAMPS
MODEL No.:430 990907
SIRIAL No.:1 of 2,112 pcs.
DRIVER:M. ALBORETO、R. CAPELLO、L. AIELLO

 それまで、「メーカーは屋根付き、プライベーターは屋根なし」という暗黙の了解があったル・マンでしたが、LMP(屋根なし)とGTP(屋根付き)マシンの性能調整が度々行われる中、LMPとGTPの性能差に明確な違いが出なくなってきました。「LMPとGTPではどちらが有利か?」という疑問に対する答えを導き出すというのが、'99年のル・マンだったと言えます。この疑問に対する各メーカーの解答は様々で、それまでGT1(GTP)カーを走らせていたパノス日産は参戦車輛をLMPマシンにスイッチします。意図する所(将来的にアメリカを視野に入れていた)は違っても、BMWもこれに追従します。一方、メルセデスやトヨタは前年と同様に屋根付きのGTPを選択します。メーカーのアイデンティティを保ちつつLMPに対抗しようとして、無理なデザインを強いられたメルセデスが空を飛んでしまった事を考えれば、また優勝したマシンが(例えファステスト・タイムを叩き出したのがトヨタGT-Oneであったとしても)BMW V12-LMRであった事を考えれば、LMPという選択は決して間違いではなかったと思うのですが、そんな中、最後までGTPを捨てきることができなかったのがアウディでした。
 アウディ・スポーツのボス、ウルフガング・ウルリッヒは、シルバー・アロー「アウディ」の復活を目指して、マシンの開発をトニー・サウスゲートに委ね、ワークスのレース運営をル・マン巧者であるヨーストに委託しました。TWRでトヨタのTS010を開発し、前年までの日産R390GT1の開発に携わった後独立したサウスゲートと、かつて4回もル・マンで勝利した経験を持つヨーストの要求によりLMPマシンが優先的に開発されましたが、完成したマシンは、決して満足いくパフォーマンスを示しませんでした。数度の作り直しの間に、LMPのみの開発に不安を覚えたウルリッヒは、買収したRTN(旧トムスGB)にGTPマシンR8C(C=クーペの意)の開発をオーダーします。
 一方、開発が継続されたLMPマシンは、R8R(R=ロードスターの意)と名付けられましたが、外観上「アウディらしさ」を残そうとするあまり、フロントノーズには大きなラジエターグリルが設けられ、フロントラジエター方式が採用されていました。また、それとは別にフロントノーズから取り入れた空気をリアホイール手前のインタークーラーまで導くという、複雑な取り回しを採用していた結果、完成したマシンは前面投影面積が大きく、ダウンフォースの割にドラッグが大きいマシンとなってしまいました。また、当初4リッターのV8エンジンが搭載されていましたが、パワー不足の為、3.6リッターのV8ターボエンジンに切り替えられてパワーアップが図られましたが、それでもライバルメーカーと較べるとパワー不足の感は否めません。リカード社(軍用メーカー)と共同開発したパワーアシスト付きミッションも信頼性が不足しており、排気量を下げて高回転型になったエンジンの出力に耐えられないという状態で、どこもかしこも問題だらけです。
 こうして開発されたR8Rは、保険として開発されたR8Cと共に2台ずつがル・マンにエントリー。前者はアウディ・ワークス(ヨースト・レーシング)に、後者はアウディ・スポーツUKにより運営されましたが、その保険のR8CはR8Rと較べてさらに開発が遅れており、全くあてにできません。結局R8Cは早々に2台共リタイアしてしまい、R8Rは8号車が3位、7号車が4位と、辛うじてワークスの面目を保ったのでした。
 左のモデルは'99年にアウディが登場させたR8Rの7号車で、ミニチャンプス製。モデルは標準的なミニチャンプスのクオリティです。この年のル・マンは突然LMPマシンが増えてしまい、屋根付きが好きだった僕はR8RよりもR8Cに注目していたのですが、あちらは残念な結果になってしまいました。この後アウディはLMPのR8によりル・マンで一時代を築く訳ですが、リアセクションはともかく、フロントセクションのデザインは、このR8Rの反省から大分異なるデザインになりますね。

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