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'99 TOYOTA GT-One #3

MAKER:hpi・racing
MODEL No.:8149
SIRIAL No.:
DRIVER:U. KATAYAMA、T. SUZUKI、K. TSUCHIYA

 トヨタがル・マン用のGT1マシンとして制作し、'98年にデビューしたGT-One(TS020)。デビューイヤーに圧倒的なスピードを見せつけたTS020は、残念ながらトラブルにより結果を残す事ができませんでしたが、そのボディ形状から大きな物議を醸し出し、「GT1マシンとは?」というレギュレーション再考の切っ掛けとなりました。まぁ、別にトヨタだけが悪い訳ではなく、日産のR390 GT1もデザインについては同様に議論の的になりましたし、他のメーカーについても多かれ少なかれそのデザインが市販車とかけ離れているという点については、突っ込みどころはあるでしょう。「GT」と名が付く以上、それは(少なくともデザイン上)市販車の延長である必要があり、それが誰の目から見ても明らかでないといけない訳です。ところが、この頃の「GT1」は、どちらかと言うと「Cカー」に近いデザインにまで昇華してしまっていました。「本来あるべきGTの姿への回帰」を目指し、FIA-GT選手権ではGT1クラスが撤廃され、旧GT2クラスを新たな「GT」クラスとして再出発を果たしましたが、同じように'99年のル・マンもレギュレーションの変更とクラス変更が行われました。
 具体的には旧LMGT1クラスが「ル・マンGTプロト(LMGTP)」となり、それまでのLMPクラスと共に上位カテゴリーという位置づけ。簡単に言うと、LMGTPがいわゆる「屋根つき」、LMPが「屋根なし」という事になります。また、この2カテゴリーは燃料タンク
容量が90Lに統一され、車重も900kgに統一されました。一方でLMPクラスではLMGTPと比較して2インチ太いタイヤを履くことができるという利点があります。「果たしてLMGTPとLMPではどちらが有利(速い)か?」という命題がより顕著になり、各メーカーのマシン開発にそれが反映された年、それが'99年と言えます。
 例えば日産は'99年には「屋根つき」マシンのR390 GT1を封印して新たに「屋根なし」のR391を登場させますし、アウディは「屋根あり」と「屋根なし」のどちらが有利かを決めかねてR8CR8Rという2種類のマシンを持ち込みます。また、メルセデスは従来通り「屋根あり」を選択しますが、LMPと較べて2インチ幅の狭いタイヤを履く為、コーナリング性能は捨てて、ストレートスピードに特化した低ドラッグマシンであるCLRを開発。結果的に予備予選や決勝レース中に空を飛んでしまい、棄権する事になってしまいます。それではトヨタはどうしたか? 基本的に、トヨタは'98仕様のTS020をブラッシュアップする事で対応したのでした。
 フロント左右下端をカナード状に処理し、フロントフェンダー内側のウイングは大型化してホイール内にまで進入、さらに規定で18インチに縮小されタイヤ径が若干縮小された事にあわせて、フェンダーアーチが若干コンパクトになりました。これらは非常に細かい修正箇所ですが、全て大きなダウンフォースを生み出しつつ、ドラッグを低減させるというアンドレ・デ・コルタンツのコンセプトによるもので、ダウンフォースを減らしてでも低ドラッグ化を徹底させたメルセデスとは対照的と言えます。
 一方でエンジンは、前年同様Cカー(90CVや91CV)由来のV8 3.6リッター、ツインターボのR36V-Rエンジンですが、1年間の開発で、より高出力化を達成。燃費増悪の原因とされていたフレッシュエアシステム(ミスファイアリングシステム)は、そのマネジメントシステムをデンソーからボッシュに変更して開発する事により改善され、前年のようなエグゾーストからの激しい炎の噴出はなくなり、代わりに「パ、パ、パ、パン・・・」という、WRCやJCTCでもお馴染みのものに。併せてエンジン自体もさらにリーンバーン化された事により燃費も改善されました。
 また、前年リタイアの原因となったミッションは、最も先行して再開発が行われ、'99年仕様ではパドルシフト化されました。
 こうして2年目を迎えたGT-Oneは、ル・マン本番前に十分なテスト走行を行い、前年の霜降り肉カラーから一転、マルボロカラー(フランスはタバコ広告規制がある為、「Marlboro」ロゴはないですが)を纏ってサルテ・サーキットに帰ってきました。
 M. ブランドル、E. コラード、V. ソスピリに託された1号車(ZENT)、T. ブーツェン、A. マクニッシュ、R. ケレナースに託された2号車(VENTURE SAFENET)、そして片山 右京、鈴木 利男、土屋 圭市の日本人トリオに託された3号車(ESSO Ultron)という3台体制で'99年のル・マンに挑んだトヨタ陣営。予選では1、2号車が1-2とフロントロウを独占して、圧倒的な速さをアピールします(3号車は8位)。しかし決勝ではエースの1号車、2号車が共にリタイア。本来バックアップ要員だった日本人トリオの3号車のみが最後の希望になってしまいます。BMWの1-2体制と、それに次ぐ4周差の3号車という状況でレースが進む中、何と1位を走行していたNo.17のBMWが脱落!トヨタ陣営はここで3号車にフルアタックを指示。右京はラップレコードを叩き出してBMWを猛追します。レースは残り2時間を切った状態で、1位のBMW15号車と3号車の差は約1分40秒。計算上、逆転勝利が見えてきたその時、3号車のタイヤが328km/hで走行中に左後輪がバースト。右京の神懸かり的なドライビングによりクラッシュは免れますが、これで万事休す。優勝の2文字はその手から滑り落ちてしまったのでした。
 左のモデルは、'99年のル・マンに出場、トヨタ最後の1台として終盤に怒濤の追い上げを見せて観客を湧かせたGT-Oneの3号車で、hpi製。結果的に涙をのむ事になりましたが、パンク発生時の右京のマシン制御は、今でも語り草になってますね。この後トヨタはF1へと注力していく訳ですが、結局トヨタのF1はその参戦自体「失敗」と評価される事になる訳ですから、スポーツカーレースファンとしては、何とも残念な事です。
 さて、個人的には'98仕様のカラーリングの方が好みなので、わざわざプレ値のミニチャンプス製の'99年3号車を買うつもりは無かったのですが、適正価格で買えるhpi製が新規に出るなら・・・と購入した次第。モデルの方はhpi製なので何の心配もありません。

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